あらゆる仕事がAIで代用できてしまう現代。身近でも使う場面が多いのが「翻訳」だろう。すでに高精度な翻訳技術が一般人でも使えるなか、翻訳系サービスの希少価値は、昔ほど高くはなくなっている現実がある。実際、AIの台頭で翻訳業界は激流の最中にある。
参考:翻訳業が苦境、利益は3年で7割減 ~ AIと競合で破産したケースも ~ | TSRデータインサイト | 東京商工リサーチ
今回のテーマは、さらに専門的な「特許・科学技術」の翻訳。いわば専門技術だが、これもまた、AIの波に押し寄せられ、無くなってしまうのだろうか。
特許・科学技術翻訳を115年にわたり手掛けるトランスユーロもまた、実際に大きな影響を受けた企業の1つ。年々精度が高まるAI社会において「翻訳者はどのように価値を出していくか」。荒波の中で導き出した解を、代表取締役社長の井口雄一さんに聞いた。(リード文、編集=AI Base編集部、文=井口雄一さん)
お話を伺ったのは

山形大学人文学部卒。1992 年 JAL グランドサービス入社後、日本航空・スカイマークなどで客室乗務員や人事・総務責任者を歴任し、労働法遵守や人事制度整備に従事。2015 年、明治創立のドイツ系法律特許事務所の翻訳部門を源流とするトランスユーロを設立。100 年以上の「職人翻訳」の技術継承と、自社開発 AI 翻訳エンジンによるハイブリッド経営を推進している。
「翻訳」という行為は、誰に頼んでもただ一つの訳になるわけではありません。日本国内はもとより、国際レベルでの明確な翻訳基準が無く、個人や企業の裁量に委ねられることが多いため、翻訳の質や表現を一定に保つことは非常に難しい状況にあります。つまり「ばらつき」があるのです。
日本では、翻訳が許認可事業ではなく、欧州のように教育や標準化の仕組みが根づいていないため、品質の均一化は非常に難しい。これが、業界全体の構造的な弱点です。
機械化によって翻訳速度は飛躍的に高まり、汎用の翻訳エンジンも実用水準に近づいています。しかし、開発に携わるのは翻訳者でなくエンジニア。専門性の高い医薬や特許等の文書においては、その正誤を検証することは難しい現状もあります。
遡ること2014年、私は東京にあるドイツ系法律特許事務所に人事部長として着任しました。事務所の翻訳者たちは、高度な専門性を持ち、特許や科学技術に関する深い知識と、卓越した技術を持つ知的専門職集団そのものでした。しかし、彼らの高度な専門性が十分に活かされていないのが現状でした。
その後、その特許事務所のメンバーを中心に、翻訳者だけの会社「トランスユーロ」が立ち上がり、私は役員として参画することになるのですが、会社は債務超過に陥ることに。
正直なところ、会社を畳むことも考えました。その度に「長年のノウハウを持ちながら、本当にこの会社をなくしてよいのか」と自問する日々が続くことになります。
115年の歴史、国内でも稀有なドイツ語特許・科学技術翻訳の専門性、そして、何よりも長年蓄積されたデータや技術資産は、他社が容易に真似できるものではありませんでした。
そこで行き着いたのが翻訳者とAIを対立させるのではなく、「115年分の知識と技術をAIに継承する」という発想。つまり、高い技術力を持つエンジンメーカーと協力しながら独自の特許・科学技術専門翻訳エンジンを開発し、知的資産を未来へ残すことです。
その後、トランスユーロでは、世界的なAI翻訳エンジンメーカーであるシストランと業務提携を行い、翻訳エンジンを共同開発しました。それが「PatCurator(パットキュレーター)」です。
学習データにはトランスユーロの翻訳者が監修した文章のみを学習させるという方針を貫き、純度100%の翻訳エンジン開発に挑戦しました。
PatCuratorの開発には、⼭形⼤学の協力も得ました(2023年、学長会見の様子)
PatCuratorは、大規模な汎用AIとは異なる思想から生まれた、特許・科学技術専用の翻訳エンジンです。学習データ量では、いわゆるガリバー型の巨大モデルには遠く及びません。開発速度も、膨大な資本と人員を持つ開発主体と比べれば決して速いとはいえません。しかし、PatCuratorが重視してきたのは、量や速度ではなく、データの純度とそれによって実現される一貫性と再現性です。
100年以上にわたり蓄積してきた翻訳ノウハウをもとに、同じ価値観、同じ判断基準、同じ表現方針を繰り返し学習させることで、出力される文章のブレを抑え、安定した品質を目指してきました。
エンジンのバージョン(V)が更新されるたびに、人手翻訳に近い精度となっています
翻訳結果はトランスユーロの翻訳者の癖に近いトーンで出てくるため、校正者(=トランスユーロの翻訳者)は訳文の違和感を素早く捉え、校正の勘所も瞬時におさえます。
単に訳文を出すだけでなく、その後のチェック工程までを含めた効率化を目指したエンジンであるという大きな特徴があります。品質管理を支えるのは派手な性能競争ではなく、日々の運用で使い続けられる確実さです。
巨大モデルのような万能型を目指すのではなく、当社の専門性と翻訳ノウハウを深く反映したAI。オンラインの不特定多数のテキストを利用するのではなく、学習データを限定・厳選することで一貫性、再現性、校正のしやすさを実現し、運用の安心感につなげています。
冒頭で触れた翻訳の「ばらつき」に対する、私たちなりの答えがこの「純度」です。当社の翻訳者が、同一基準に基づいて徹底的に監修したデータだけを学ぶことで、訳文の一貫性と再現性を確保し、品質のばらつきを抑えています。
文章(原文・訳文)の選定・チェックを終え、AI学習に回ったものの結果をまとめたもの
ただ、開発当初の品質は低く、訳文のチェックを担当していた翻訳者からは連日、厳しい指摘が寄せられました。中には、AIを翻訳者にとっての脅威と捉える者もおり、内部にいる翻訳者の意識改革も大きな課題。それでも社員と対話を重ね、改善を続けました。
開発開始から2年ほどが経ち、品質に一定の手応えを感じていましたが、翻訳者たちの評価は依然として厳しいままでした。
彼らの基準はあくまで100点であり、80点では認められません。ただ、私の考えとして、市場が求めているのは、完璧さだけでなく品質とスピードの両立。「数秒で80点を作り、残り20点を人が補完する」スタイル。これが当面は続くと想定していました。
そこで、社内評価だけに頼らず、お付き合いのある外部企業に検証の協力を依頼。
すると、数か月後に、「これなら使えるかも、不足部分は御社でフォローしてもらえれば問題ない。」という前向きな評価が返ってきました
そこから流れが変わることになります。メーカーによる商用化へ向けたが調整が始まり、未来資産のために開発した翻訳エンジンが、新たな価値を提供するインフラとして市場に受け入れられ始めたのです。
振り返れば、翻訳者たちの妥協を許さない品質基準に向き合った2年間は決して無駄ではありませんでした。その厳しさがあったからこそ、市場に出た時には十分な水準に達していたのだと思います。
何かが変わるときには、必ず「過渡期」というものが存在します。
機械翻訳も同じで、当面は、人間の確認が全く不要な水準には達しないと考えています。特に、専門性の高い医薬や特許などの分野ではその傾向が強いです。
自動運転の普及に時間がかかるように、翻訳の完全自動化にはまだ10年ほどはかかるのではないでしょうか。
仮に技術的・数字的な基準をクリアしたとしても、心理的なハードルは最後まで残ることとなります。だからこそ我々は、遠い未来だけを見るのではなく、この過渡期を確実に支える仕組みを持ちたいと思っています。
過渡期における翻訳業務の現実的な形は、機械翻訳と翻訳者による校正を組み合わせる2段階運用です。一社(一部署)が一台の翻訳エンジンをもち、内部で完結させることもできれば、必要に応じて専門家へ校正を依頼する、それで十分業務は回るでしょう。
「自分たちにしかない価値は何か」
この過渡期に私たちが辿り着いた答えは、115年の歴史を守ることではなく、115年の知識と技術を未来へ残すことでした。新たな時代に順応し、AIと共存することで、継承していきます。
私たちが開発したのは単なる翻訳システムではありません。先人たちが積み重ねてきた知識と技術を次世代へ受け渡すための器です。このエンジンは現在も、翻訳者たちの知見を学び続けながら成長しており、その進化を見守ることは、私にとって生涯をかけたライフワークになっていくのかもしれません。