「AIの力は借りたい。しかし、患者の命に関わる機密情報を、インターネットの向こう側へ送ることには躊躇いがある」。これが、デジタル化を迫られる多くの医療現場従事者の本音だろう。便利さとセキュリティの板挟み――このジレンマを解消するための挑戦的なプロジェクトが、高齢化先進地・秋田県で動き出した。
2026年1月、株式会社デジタル・ウント・メア、秋田公立美術大学、秋田県産業技術センターの3者は、医療データを外部に出さずに活用できる「秘匿性を考慮した業務アシスタントシステム」の研究開発を開始した。目指すのは、クラウドを一切介さずに稼働する「安全なAI」の社会実装だ。あえてインターネットから遮断された環境を選ぶこの試みは、セキュリティと利便性の両立に悩むあらゆる業界にとって、一つの解となる可能性を秘めている。(文=AI Base編集部)

今回始動した産学官の共同研究プロジェクトは、秋田県の「中核人材確保・定着環境整備支援事業」の採択を受けて実施されるものだ。背景にあるのは、病理・細胞診報告書の作成・確認業務における深刻な負担増と、ヒューマンエラーのリスクである。
これらの業務では、検体の情報や医師の所見、専門用語などが複雑に入り組んだ文書を作成・確認する必要がある。AIによるダブルチェックが渇望される領域だが、扱うデータは極めて秘匿性の高い患者の個人情報だ。一般的なクラウド型AIサービスにデータを送信することは、情報漏洩のリスクやコンプライアンスの観点から事実上不可能に近い。
そこで本プロジェクトが選択したのは、「クラウドに依存しない」というアプローチだ。高性能なAIモデルを、外部通信を遮断した病院内の閉域ネットワーク、あるいは完全に独立したローカル環境で動作させる基盤を構築する。具体的には、病理・細胞診報告書に対し、「診断と所見の矛盾」を自動指摘したり、「必須項目の欠落」をチェックしたり、あるいは「用語の表記揺れ」を修正提案するなどの機能を開発する。
また、本研究の大きな特徴は、技術的な実装に加えて「デザイン」の視点を重視している点にある。共同研究機関である秋田公立美術大学は、医療従事者の業務に自然に溶け込むシステムをデザインの視点から研究する。現場の「人に優しい、使いやすいデザインが欲しい」という切実な声に応え、テクノロジーをどのように社会実装すべきかという問いに対し、システムデザインの側面からアプローチを試みる。3カ年計画で進められるこの研究は、初年度にAI実装基盤の整備を行い、次年度以降に実際の医療文書を用いた検証へと移行する予定だ。
今回の秋田での取り組みが示唆するのは、AI技術の社会実装における大きなトレンド転換だ。
生成AIブームの初期、AIを利用することはすなわち「外部のクラウド上にある巨大な計算資源にアクセスすること」とほぼ同義だった。しかし、通信遅延やコスト、そして何より「データを外部に出したくない」というセキュリティ上の懸念は、常に導入の足枷となってきた。現在、技術の潮流は、汎用的な巨大モデル一辺倒から、特定のタスクに特化したモデルを手元の閉じた環境で動かす方向へと広がりを見せている。
秋田発のこのプロジェクトは、まさにその先端事例と言えるだろう。医療現場だけでなく、行政文書や企業の特許情報、金融機関の内部資料など、クラウドに上げることが難しい機密情報を扱う領域は世の中に溢れている。インターネット接続を前提とせず、手元の環境で高度な知能を安全に利用できる「ローカルAI」のニーズは、今後ますます高まっていくことが予想される。
また、「課題先進県」である秋田からこの技術が生まれた意義も大きい。医師不足や高齢化が進む地域医療の現場において、AIは労働力を補うための重要な手段だ。そこで求められているのは、単なるスペック競争ではなく、現場のスタッフが安心して使い続けられる堅牢性と、業務に馴染む使いやすさである。
自分たちのデータを、自分たちの管理下に置いたまま技術の恩恵を享受する。この「データを外に出さない技術」の確立は、AIが社会インフラとして真に定着するために避けては通れない道であり、秋田での挑戦はその重要な試金石となるだろう。