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2026.04.16

消えゆく熟練者の「勘」。現場の暗黙知を引き継ぐ

熟練者の手元、視線の配り方、そして「なんとなく」下される瞬時の判断。日本の製造業を世界屈指のレベルへと押し上げてきたのは、こうしたマニュアル化が不可能な「暗黙知」の集積である。その貴重な資産は、少子高齢化により次世代へ引き継がれることなく、ベテランの退職と共に静かに消え去ろうとしている。

この難問に対し、新たな動きが始まった。AIエージェントを用いて製造現場の暗黙知を形式知化・継承・進化させる「一般社団法人 匠和会(しょうわかい)」の設立、そして老舗ポンプメーカーである荏原製作所が始動させた「知識駆動型DXプロジェクト」の全貌だ。

巨大LLMの進化が世界を席巻する中で、日本が独自の勝ち筋として提示する「知能のインフラ」のあり方とは。人とAIが共鳴し、共に進化する製造業の未来図を追う。(文=JapanStep編集部)

「暗黙知」をAIで資産化。匠和会と荏原が挑む知識駆動型DX

職人の技術や経験に基づく知識。こういったマニュアル化しにくい「暗黙知」はどの現場にもあふれている。これらは言語化しようにも感覚的なもので、従来のヒアリングではその核心に触れることさえ不可能だった。

栗原さんは、脳の本体である潜在意識のブラックボックスにどう切り込むかが、日本製造業の命運を分けると説く。

「これまでのAIは顕在知のレベルに留まっていましたが、昨今のLLM(大規模言語モデル)の登場で状況は一変しました」と慶應義塾大学 理工学部教授 栗原 聡さんは語る。

LLMが持つ膨大な知見と、断片的な情報から背後にある論理を導き出す「因果推論」の力。こうしたAIの特性を、身体動作のセンシングによって可視化された情報と掛け合わせることで、ついに潜在意識に眠る熟練の知を抽出できる道筋が見えてきたのだ。

慶應義塾大学 理工学部教授 栗原 聡さん

今回設立された匠和会が目指すのは、モデルの規模を競うAI競争ではなく、現場に点在する深い知見を繋ぎ合わせ、国全体を「イノベーション多産な社会」へと変容させる「分散型AI経済社会」の構築である。

この思想を実現場のソリューションへと昇華させたのが、荏原製作所の「知識駆動型DXプロジェクト」だ。プロジェクトを率いる王 宇坤 さんは、「デジタルトリプレット(D3)」の重要性を説く。従来のデジタルツイン(物理・デジタルの二層)に、判断の根拠や意味を司る「知識空間」を加えた三層構造のこと。これこそ次世代の製造業の基盤になるという。

東京大学の梅田 靖 教授が提唱し、自らも実装の礎としたデジタルトリプレット

当プロジェクトの具体的な実装が、自律分散型AIエージェント基盤「Ebara Brain」と、設計開発支援システム「EBARA 開発ナビ」の融合だ。特筆すべきは、AIが単なる回答ツールではなく、業務の「伴走者」として機能する点にある。

ユーザーが実行したいプロジェクトの内容を伝えると、AIエージェントチームは過去の会議音声や暗黙知ノードを自律的に解析し、最適な解析フローを自ら設計。

さらに「形式知化エージェント」や「ヒアリングエージェント」が対話を通じて不足した知識を補完し、人間に対して「この判断には、過去のこの事例という根拠があります」とエビデンスを提示する。

この「人間中心」の設計は、圧倒的な生産性向上をもたらした。プロジェクト全体として、熟達者の知見を形式知化する活動にかかる時間を実に75%も削減することに成功。さらに、給水ユニットを用いた概念実証(PoC)においては、AIによる設計プロセスの生成精度は85%、諸元間の関係性予測においても83%という驚異的な数値を叩き出したのだ。

王さんは、この仕組みを自社に閉じず、匠和会を通じて中小製造業へも展開する意欲を見せる。匠和会の栗原さんも、高価な設備投資をせずとも「カメラ一台のセンシング」から暗黙知を抽出できるようなパッケージ化を急ぐ考えだ。

知識のNFT化や標準化をも視野に入れたこの取り組みが目指すのは、属人的な知をオープンに繋ぎ、日本の製造業全体の底上げを図ることに他ならない。巨大テック企業のデータ独占を許さず、日本独自の「現場力」を資産化するこの試みは、グローバル市場における新たな生存戦略となるはずだ。

「虎の巻」を「組織知」へ。熟練の矜持を解き放つ人間中心の共生

発表会後半のトークセッションでは、荏原製作所の技監である後藤 彰 さんも加わり、より「現場の生きた知」に踏み込んだ議論が交わされた。後藤さんは、マニュアルや図面には決して現れない「なぜ(Why)」の正体を、あるモーター設計のエピソードで鮮やかに示した。

かつて熟練の設計者が、モーターのコイルの巻き方をあえて「ゆったり」と描いた図面があった。効率を優先すれば「タイト」に巻くのが定石だが、その真意は図面のどこにも記されていない。後藤さんが本人に問うと、「この製品は生産数が少ないため、将来的に海外拠点で手巻き作業になる可能性がある。現場のスキルレベルを考えれば、あえてゆとりを持たせないと、断線や故障を招き信頼性を損なう」という答えが返ってきたという。サプライチェーンの末端、さらには製品のライフサイクル全体を見越したこの深い洞察こそが、マニュアル化できない「暗黙知」の本質である。

「新しい課題が起きたとき、人は有識者に相談し、解決に奔走します。その『走り回った足跡』そのものが暗黙知の塊ですが、解決した瞬間に忘れ去られてしまう」と後藤さんは語る。

ベテラン技術者がかつて「虎の巻」を引き出しに隠し、鍵をかけていたのは、決して知識の独占が目的ではない。「正しく理解していない人に、間違った使い方をされたくない」という、エンジニアとしての強い責任感ゆえだ。AIが判断の根拠や文脈を正しく抽出し、提示できる仕組みを構築できれば、ベテランも安心して知を共有でき、その知見を生み出した功績が正当に評価される「知識循環型」の組織文化が醸成されるはずだ。

荏原製作所 技監 後藤 彰さん

また、王さんは「キャリアの拡張」という視点からAIの役割を再定義する。「流体力学の権威である恩師は『エンジニアの道を選んだから、もう漫画家にはなれない』ということを漏らしていました」(王さん)。一つの専門性を極めるために他の夢を犠牲にせざるを得なかった「習熟プロセスの重さ」を象徴している。王さんは、AIがこうした膨大な知識の整理や煩雑な業務プロセスを肩代わりすることで、人間が「専門家としての責務」に縛られすぎず、諦めていた別の夢や創造性を自由に拡張できる未来を描く。AIという強力な伴走者を得ることで、人間は技術的な重荷から解放され、より自分らしく、創造的な判断に専念できる余地を得るのだ。

荏原製作所 「知識駆動型DXプロジェクト」統括責任者 王 宇坤さん

栗原さんが描く共生の形もまた、極めて人間中心だ。人間がAI側のルールや都合に合わせるのではなく、むしろ知能の側が現場の空気を読み、人間の動きをさりげなくサポートする。器用で素早く動く人間たちが主役である「現実の生活空間」に、高度な知能が音もなく溶け込んでいく――。テクノロジーが主張しすぎることのない調和の姿を、栗原さんは「目指すべき真の共生」として提示する。製造現場から始まるこの変革は、日本が100年かけて積み上げてきた「暗黙知」を資産化し、再び世界における競争力を取り戻すための号砲となるだろう。

人間中心の設計思想は、日本の製造業を再起動させ、現場に眠る「勘」を世界に通用する確かな知的資産へと昇華させる。知の継承を核とした変革のプロセスこそが、日本が再びグローバル市場で独自の優位性を発揮するための最強の武器となるはずだ。